[特別編] 還暦の罪滅ぼし

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還暦を迎えました。
そして、還暦になってやっと気づいたことがありました。

私の母は、八十八。昨年の六月に私たち姉弟(姉二人と私)夫婦が集まってささやかなお祝いをしました。
そしてお盆が過ぎたあたり、母が突然「めまいがして立てない。歩けない」と言い出し苦しがっています。日曜のことでしたので、横手の総合病院の救急外来に連れて行きました。

もともと、母は七十になる前から少しずつ腰が曲がってコルセットをしていました。それでも、朝起きると1時間ほどのストレッチを欠かさず、朝ごはん前、父と畑仕事に出かけるのが日課の「たっちゃ(達者)」な母です。
そして、毎年楽しみにしていた父との泊りがけの旅行もだんだんしなくなり、私たち夫婦が連れていく年に二、三回ほどの日帰り旅行を楽しみにしていました。
そんな行先の階段の前で、私が手を差し出し「さぁどうぞ、お嬢様」とエスコートしようと手を差し出すと、「ノー、ノー」と私の手を払いのけて「ボク、一人で登れるもん」とふざけながら必死に一人で登ります。人の手を借りず、自分が一人でできることを一つ一つ確かめているようでもありました。

さて、母の「めまいがして立てない。歩けない」は救急外来でははっきりせず、次の日から普通の外来で検査をしました。母の苦しさはなくならないのに、検査は長引きます。お昼近くになって嫁様が「お母さんお願い、お父さんにご飯食べさせてくる」と言って家に帰りました。
ほどなくして、「康市、トイレに行きたい」と母が言います。看護婦さんにその旨を伝えて車いすで連れて行きました。トイレのドアの前で抱きかかえて座らせようとした時、差し出した手を母が握りました。「握手じゃないよ」と言って脇の下に腕を入れて抱きかかえて座らせました。
母が用を足している間、廊下で私は不思議な気持ちが湧き上がってくるのを感じました。母が一人でトイレに行けなくなったことは、確かにショックなのだけれども、ただそれだけではないと思いました。
さっき母がとっさに握った右手をじっと見ました。そこに母の手の感触が残っていました。とてもあったかくて柔らかいものでした。その感触こそが私の中の不思議な感情の出どこであることがだんだんわかってきました。私はその手の感触が受け入れられず、唖然としていたのです。

母と手をつないだ確かな最後の記憶は、小学校の入学式までさかのぼると思います。友達の前で、母のことを「母さん」と呼ばず「おふくろ」と呼ぶようになってからは全くないと思います。
私の記憶の中に残る母の手は、いつも水で濡れていて、冷たかった。そしてごっつくて、ガサガサしていました。
小さいころ、濡れていて、冷たく、ごっつくてガサガサな手で、ほっぺあたりを両手でぎゅっと挟まれるのが嫌でした。悪さをした時の罰のような気がしました。ところが、とっさに握った手は、とてもあったかくて柔らかいものでした。「母の手、本当はこうなんだ」と、今になって分かったことがとてもショックなのだと思いました。心の内側がひりひりするような感覚でした。

思えば、田んぼや畑で野良仕事をしているところに私が行くと、堰の水で手を洗ってかぶっていた薄い手拭いで鼻をかんでくれたろう。家に帰れば、炊事と洗濯で手は乾くことなく、ガサガサに荒れていたろう。その手で撫でてくれていたこともあったろう。それを理解せず、触られること自体を嫌なこととして感じていた自分。しかも、ある程度の年になってからは、こともあろうに「愛情表現の下手な人だ」なんて勝手に決めつけていたころもありました。ゴム手袋も、ハンドクリームもない時代の話とはいえ、母が私に向かって差し出した両手を、片手で振り払っていた私がそこにいます。

母は今、自宅の居間で介護ベッドの上にいます。
私は、家に帰ると母の手を握りながら「ただいま」と言います。母は、「おなぎだったな(ご苦労さんでしたね)。寒かったべ」と言います。
そして、「今日、物干し竿の三本分ぐらい歩いた」とデイサービスでのリハビリの進捗状況を話すのが日課です。
還暦の罪滅ぼしで、そんなとりとめのない話をじっと手を握ったまま聞いています。爪の形がそっくりな母の手を握ったまま聞いています。



[其の十三] 一杯あがってたんせ(一杯どうぞ)

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私が小学校に入った1964年、東京オリンピックがあった。

学校の視聴覚室、仰々しく木の扉のついた白黒テレビで入場行進を見た。みんな体育座りだ。

そのオリンピックの前後の東京は、かなり多くの東北人を吸い込んでいたようだ。ここ秋田でも、中学を出たばかりで学生服を着て就職列車に乗り込む集団就職、「金の卵」と呼ばれた時代だ。そして、村の親父さんたちは秋、稲刈りもそこそこに家族から離れ、春まで「出稼ぎ」の飯場ぐらしだった。

その「金の卵」と「出稼ぎ」を一番苦しませたのが、実は秋田弁。話したいけど通じない。通じないから口をつぐんでしまう。そのストレスはどれだけのものか想像できない。言葉のことで悔しい思いや悲しい経験をした人たちの話を、あとになってどれだけ聞いたろう。切実な問題だった。それが引き金だったのか、学校では「標準語教育」に力を入れるようになった。もちろん、その効果はかなりあったのだろう。でも、小学生の私には残念な記憶も強く残っている。

私の通った小学校では教室の後ろに「良い言葉を使いましょう」というタイトルの棒グラフが貼られていた。「きたない言葉」を使っちゃいけないと言うならまだしも、標準語が「良い言葉」、方言は「悪い言葉」と言うことだった。学校で秋田弁を一回使うと、名前の上に一個の×を積み上げていくというしろものだった。

そのころ学校では勉強時間は、さすがに「標準語」で進められていた。そして、休み時間は先生さえ秋田弁という、二ヶ国語暮らしだった。そこに「良い言葉を使いましょう」がドカドカと入り込んできたのだ。あの棒グラフが気になって仕方がない。あの棒グラフのせいでのどかな休み時間も気が抜けないものとなった。つまり学校にいる間はずっと「標準語」だけしか使われなかった。

なかには「今日学校終わったら何して遊ぶ?」の誘導尋問で罠をかけられ、「ザッコ釣り!」と条件反射で答えてしまうと「○○くん、悪い言葉使った!魚釣りと言わなきゃだめなのに」とバツを付けられるという友達もいたほどだ。友達同士が互いにチェックし合っている険悪な雰囲気を今もはっきり覚えている。

そして、この「悪い言葉退治」は、学校だけにとどまらず、今度はすべてがネイティブ秋田弁の家の生活にまで及んだ。じいさんが「あー腹へった。ままにするべ」と言うと、すかさず「あっ、じいちゃん悪い言葉使った。あーおなかすいた。ご飯にしましょうだよ」と知ったかぶりで話す自分がいた。「六十年も使ってきた言葉、どこが悪い言葉だ。フン」と、じいさんはムスッとしてご飯をかき込んでいた。学校でも家でもそんな具合だった。あの頃のことを思い出すと自戒の念を含めて、なんだか心の奥がヒリヒリする。

私は、あの頃の標準語教育で秋田弁は駆逐され、絶滅寸前だと思っていた。しかも標準語と引き換えに秋田弁だけでなく、秋田県人の心意気とプライドまで無くしはしないかと、かなり真剣に心配していた。。

そうあれから五十年。その心配は見事に裏切られ、今、巷には秋田弁が溢れている。「まめでらが」という名の道の駅、「あばだらけ」という名の直売所。県のポスターには「あんべいいな」…挙げるとキリがない。

秋田弁は無くなっていなかった。秋田県人の心意気とプライドも「熾(おき)」となってしっかり残っていた。県内はもとより、県外の人たちからの「秋田って、いいね!」の風をうけてバチバチと燃え上がってきたのかもしれない。

秋田弁でなければ言い表せないものがある。「おにぎり」と「握りまんま」は違うし、「ゼンマイの煮しめ」と「ゼンメの煮づけっこ」もそうだ。

そして、秋田弁でなければ伝わらない感情がある。「おいしい」では伝わらない「あや、うみゃごど」がある。「切ない」では伝わらない、「せづね」だけでしか言い表せない深い悲しい辛い気持ちがある。

真剣に考えるとき、心の中で使う言語は秋田弁だ。そして、本音で相手に自分の心の奥底を伝えたい時、自然に口からこぼれ出てくるのも、やはり秋田弁だ。シンプルな言葉こそ自分の心に刻まれ、そして相手にも伝わるからだと信じている。

「良い言葉」、秋田には京言葉に負けないくらい上品でしなやかな言葉遣いがいっぱいある。たとえば、「一杯あがってたんせ(一杯どうぞ)」。しかも相手があきた舞妓さんなら最高にちがいない。お酒の味さえ変わりそうな素敵な言葉だ。

まわりを見渡せば、相手を思いやるやさしい言葉遣いの秋田弁に囲まれて、私たちは生きていることを今一度噛みしめたい。

ところで、上品と言えばちょっと気になる標準語。たとえば「お客様へのおもてなし料理」。私には「お客さんへのもてなし料理」のほうがおいしそうに伝わるな。



[其の十二] 食ってしけでけれ(食べるの手伝って)

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 私が青っ鼻を垂らしていた小学校のころ、母は季節の野菜を大きな背負い籠に入れて町に出かけて行った。いくらか顔見知りになった町の奥さんたちの玄関で一軒一軒声を掛ける。本職ではないが野菜を売り歩く。小銭が少しずつ貯まっていく。籠の野菜がなくなると袋状の財布(最後に長い紐でくるくる巻きにするタイプ)からお金を出して、それで買える分だけ魚を買う。塩辛い鮭(この辺ではボダッコと言う)や、塩が白く粉を吹くようなニシンなどだ。肩がちぎれるくらい野菜をたくさん背負って行っても、収穫は僅かなものだったらしい。家に着くと炊事場で魚の下処理をする。魚を包む新聞紙の間から、魅惑の赤い袋に入った棒状の食べ物を発見することがあった。

 「特別だよ。今日は特別のおみやげだよ」そういって母は「魚肉ソーセージ」を手渡してくれた。ただし、それは斜めに薄くスライスして子ども三人で分けて食べるもので、「ああ、一度でいいから一本まるごと食べてみたい」それが小さいころの私の夢だった。そうそう、バナナは遠足の時だけだった。それも母が野菜を売ったお金で買ってきてくれた。

 その後、そうして町に出かけることは次第になくなった。それでも、家族の胃袋を満たし家計の助けになって来たことに間違いはない。

 「特別な贅沢しなければ、米・味噌、そして畑の野菜があればなんとかなる。昔からよく言ったもんだ」我が家の九十に近い父母たちは口にする。つまり、農家は自給自足が大切という教えだ。ただし、子どもたちが家から離れ家族が減ったにもかかわらず我が家の「古老」たちの野菜作り熱は止まらない。もうとうに「自給自足」の域を超えている。「大雨の前に揃った芽が出てよかった」「台風が来るから茄子の支柱を増やさなければいけない」一喜一憂しながらの毎日だ。「朝起きてすることがあるっていいことだ」と、朝日とともに畑に出る。

 さて、問題は家では食べきれない野菜たちだ。すると父母は手際よく何種類かの野菜を袋にまとめ、子どもたちや、親類の家に「配達」に出かける。つまり手土産に持っていく。その時手渡すときの一言が《食ってしけでけれ》なのだ。

 「おみやげです。食べてください」では、いくら身内とはいえ気を使う。「お返し」を考えたりする。そこで「ごめんね。食べるの手伝って」という、遠慮させないための優しい言葉と気配りだ。近所の農家同士でも、「あるとは思うけど、食べきれなくて《食ってしけでけれ》」と言って玄関先において行ってくれる。「あやえがったごど。じぎなしごっつぉーなるな(ほんとよかった。遠慮なしに御馳走になるね)」と言って受け取る。そしてしばらくして今度は反対に、「果樹やっている妹、リンゴいっぱい送ってきた。《食ってしけでけれ》」とお返しをする。「うちの子供たちの大好物だ。ありがたいごど」と受け取る。食べ物の行き来にこんな会話がついてくる。

 そういえば農家の中には、「キュウリを植えてはいけない家」「ゴボウを植えてはいけない家」があったりする。これは「あること」よりも「ないこと」でお互いに頼りあう仕組みなのかもしれない。そして。もっとすごいことは村に「米の銀行」とでも言うのだろうか、共同の米蔵があった。冠婚葬祭で急に物入りがあると米を借りるのだ。そしていくらか余裕ができると利息を付けて米蔵に返す。お互い助け合う「村」の仕組みだった。

 関西の人たちがおばんざいをお隣さんに持って行く時「ぎょうさん作りすぎてしもうた。食べるのてつどうて」の精神がここにもある。