Category: 恋する秋田弁

[其の十三] 一杯あがってたんせ(一杯どうぞ)

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私が小学校に入った1964年、東京オリンピックがあった。

学校の視聴覚室、仰々しく木の扉のついた白黒テレビで入場行進を見た。みんな体育座りだ。

そのオリンピックの前後の東京は、かなり多くの東北人を吸い込んでいたようだ。ここ秋田でも、中学を出たばかりで学生服を着て就職列車に乗り込む集団就職、「金の卵」と呼ばれた時代だ。そして、村の親父さんたちは秋、稲刈りもそこそこに家族から離れ、春まで「出稼ぎ」の飯場ぐらしだった。

その「金の卵」と「出稼ぎ」を一番苦しませたのが、実は秋田弁。話したいけど通じない。通じないから口をつぐんでしまう。そのストレスはどれだけのものか想像できない。言葉のことで悔しい思いや悲しい経験をした人たちの話を、あとになってどれだけ聞いたろう。切実な問題だった。それが引き金だったのか、学校では「標準語教育」に力を入れるようになった。もちろん、その効果はかなりあったのだろう。でも、小学生の私には残念な記憶も強く残っている。

私の通った小学校では教室の後ろに「良い言葉を使いましょう」というタイトルの棒グラフが貼られていた。「きたない言葉」を使っちゃいけないと言うならまだしも、標準語が「良い言葉」、方言は「悪い言葉」と言うことだった。学校で秋田弁を一回使うと、名前の上に一個の×を積み上げていくというしろものだった。

そのころ学校では勉強時間は、さすがに「標準語」で進められていた。そして、休み時間は先生さえ秋田弁という、二ヶ国語暮らしだった。そこに「良い言葉を使いましょう」がドカドカと入り込んできたのだ。あの棒グラフが気になって仕方がない。あの棒グラフのせいでのどかな休み時間も気が抜けないものとなった。つまり学校にいる間はずっと「標準語」だけしか使われなかった。

なかには「今日学校終わったら何して遊ぶ?」の誘導尋問で罠をかけられ、「ザッコ釣り!」と条件反射で答えてしまうと「○○くん、悪い言葉使った!魚釣りと言わなきゃだめなのに」とバツを付けられるという友達もいたほどだ。友達同士が互いにチェックし合っている険悪な雰囲気を今もはっきり覚えている。

そして、この「悪い言葉退治」は、学校だけにとどまらず、今度はすべてがネイティブ秋田弁の家の生活にまで及んだ。じいさんが「あー腹へった。ままにするべ」と言うと、すかさず「あっ、じいちゃん悪い言葉使った。あーおなかすいた。ご飯にしましょうだよ」と知ったかぶりで話す自分がいた。「六十年も使ってきた言葉、どこが悪い言葉だ。フン」と、じいさんはムスッとしてご飯をかき込んでいた。学校でも家でもそんな具合だった。あの頃のことを思い出すと自戒の念を含めて、なんだか心の奥がヒリヒリする。

私は、あの頃の標準語教育で秋田弁は駆逐され、絶滅寸前だと思っていた。しかも標準語と引き換えに秋田弁だけでなく、秋田県人の心意気とプライドまで無くしはしないかと、かなり真剣に心配していた。。

そうあれから五十年。その心配は見事に裏切られ、今、巷には秋田弁が溢れている。「まめでらが」という名の道の駅、「あばだらけ」という名の直売所。県のポスターには「あんべいいな」…挙げるとキリがない。

秋田弁は無くなっていなかった。秋田県人の心意気とプライドも「熾(おき)」となってしっかり残っていた。県内はもとより、県外の人たちからの「秋田って、いいね!」の風をうけてバチバチと燃え上がってきたのかもしれない。

秋田弁でなければ言い表せないものがある。「おにぎり」と「握りまんま」は違うし、「ゼンマイの煮しめ」と「ゼンメの煮づけっこ」もそうだ。

そして、秋田弁でなければ伝わらない感情がある。「おいしい」では伝わらない「あや、うみゃごど」がある。「切ない」では伝わらない、「せづね」だけでしか言い表せない深い悲しい辛い気持ちがある。

真剣に考えるとき、心の中で使う言語は秋田弁だ。そして、本音で相手に自分の心の奥底を伝えたい時、自然に口からこぼれ出てくるのも、やはり秋田弁だ。シンプルな言葉こそ自分の心に刻まれ、そして相手にも伝わるからだと信じている。

「良い言葉」、秋田には京言葉に負けないくらい上品でしなやかな言葉遣いがいっぱいある。たとえば、「一杯あがってたんせ(一杯どうぞ)」。しかも相手があきた舞妓さんなら最高にちがいない。お酒の味さえ変わりそうな素敵な言葉だ。

まわりを見渡せば、相手を思いやるやさしい言葉遣いの秋田弁に囲まれて、私たちは生きていることを今一度噛みしめたい。

ところで、上品と言えばちょっと気になる標準語。たとえば「お客様へのおもてなし料理」。私には「お客さんへのもてなし料理」のほうがおいしそうに伝わるな。



[其の十二] 食ってしけでけれ(食べるの手伝って)

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 私が青っ鼻を垂らしていた小学校のころ、母は季節の野菜を大きな背負い籠に入れて町に出かけて行った。いくらか顔見知りになった町の奥さんたちの玄関で一軒一軒声を掛ける。本職ではないが野菜を売り歩く。小銭が少しずつ貯まっていく。籠の野菜がなくなると袋状の財布(最後に長い紐でくるくる巻きにするタイプ)からお金を出して、それで買える分だけ魚を買う。塩辛い鮭(この辺ではボダッコと言う)や、塩が白く粉を吹くようなニシンなどだ。肩がちぎれるくらい野菜をたくさん背負って行っても、収穫は僅かなものだったらしい。家に着くと炊事場で魚の下処理をする。魚を包む新聞紙の間から、魅惑の赤い袋に入った棒状の食べ物を発見することがあった。

 「特別だよ。今日は特別のおみやげだよ」そういって母は「魚肉ソーセージ」を手渡してくれた。ただし、それは斜めに薄くスライスして子ども三人で分けて食べるもので、「ああ、一度でいいから一本まるごと食べてみたい」それが小さいころの私の夢だった。そうそう、バナナは遠足の時だけだった。それも母が野菜を売ったお金で買ってきてくれた。

 その後、そうして町に出かけることは次第になくなった。それでも、家族の胃袋を満たし家計の助けになって来たことに間違いはない。

 「特別な贅沢しなければ、米・味噌、そして畑の野菜があればなんとかなる。昔からよく言ったもんだ」我が家の九十に近い父母たちは口にする。つまり、農家は自給自足が大切という教えだ。ただし、子どもたちが家から離れ家族が減ったにもかかわらず我が家の「古老」たちの野菜作り熱は止まらない。もうとうに「自給自足」の域を超えている。「大雨の前に揃った芽が出てよかった」「台風が来るから茄子の支柱を増やさなければいけない」一喜一憂しながらの毎日だ。「朝起きてすることがあるっていいことだ」と、朝日とともに畑に出る。

 さて、問題は家では食べきれない野菜たちだ。すると父母は手際よく何種類かの野菜を袋にまとめ、子どもたちや、親類の家に「配達」に出かける。つまり手土産に持っていく。その時手渡すときの一言が《食ってしけでけれ》なのだ。

 「おみやげです。食べてください」では、いくら身内とはいえ気を使う。「お返し」を考えたりする。そこで「ごめんね。食べるの手伝って」という、遠慮させないための優しい言葉と気配りだ。近所の農家同士でも、「あるとは思うけど、食べきれなくて《食ってしけでけれ》」と言って玄関先において行ってくれる。「あやえがったごど。じぎなしごっつぉーなるな(ほんとよかった。遠慮なしに御馳走になるね)」と言って受け取る。そしてしばらくして今度は反対に、「果樹やっている妹、リンゴいっぱい送ってきた。《食ってしけでけれ》」とお返しをする。「うちの子供たちの大好物だ。ありがたいごど」と受け取る。食べ物の行き来にこんな会話がついてくる。

 そういえば農家の中には、「キュウリを植えてはいけない家」「ゴボウを植えてはいけない家」があったりする。これは「あること」よりも「ないこと」でお互いに頼りあう仕組みなのかもしれない。そして。もっとすごいことは村に「米の銀行」とでも言うのだろうか、共同の米蔵があった。冠婚葬祭で急に物入りがあると米を借りるのだ。そしていくらか余裕ができると利息を付けて米蔵に返す。お互い助け合う「村」の仕組みだった。

 関西の人たちがおばんざいをお隣さんに持って行く時「ぎょうさん作りすぎてしもうた。食べるのてつどうて」の精神がここにもある。



[其の十一]『はーえ(どーも、ごめんください)』

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「こんにちはー、水飲ませてください」──ランドセルをカタコト鳴らしながら、元気な挨拶が玄関から聞こえてくる。

「天の戸」では、酒蔵から50mほど離れたところに湧き水があり、通りを挟んで蔵の中に引き入れ、仕込み水として使用している。その冷たい湧き水を目当てに、学校帰りの小学生たちがやってくる。夏のアスファルトを歩いてきた子供たちには絶好の「給水所」だ。

ある土曜日、見覚えのある女の子が弟らしき小さな子を連れて玄関に立っていた。「こんにちは……、水飲ませてください」と、はにかみながら言っている。そうだ、いつもは上級生たちのかげに隠れるようにくっついて来ている子だ。たしか真新しい赤いランドセルを背負っていたから、きっと一年生だろう。事務所からの「どうぞ」の声に、男の子の手を引いて水飲み場に走って行った。

しばらくすると、その女の子がまた横に男の子を立たせて玄関にいる。私と目が合うと女の子は、男の子の背中に手をやって「ありがとうございました」と、自分がお辞儀するのに合わせて頭を下げさせた。そして入ってきたときと同じように、はにかみながら通りに走って出て行った。

小さな酒蔵とはいえ、子供たちにとってこの薄暗い建物には威圧感、独特な雰囲気があるのだろう。でも学校に上がった「えらい姉ちゃん」はここに入るワザを持っている。上級生のやっていることの見よう見まねながら、ここの「しきたり」を知っている。弟にそんなところを見せたかったのだろう。

そういえば近頃「ごめんください」を言わなくなった。一般のお宅に入るときは別だが(言わなかったら泥棒である)。例えばコンビニ。黙っていてもドアが開く。そして黙っていても「ピンポーン」のチャイム。こっちを見ていなくても店員さんが「いらっしゃいませー」と忙しいのに言ってくれる。大型スーパーでは、カートにかごを載せてからレジを通るまで「ポイントカードお持ちですか?」の声がなければひと言も話さずにクルマに戻る。それが日常になりつつある。

幼い頃、私の住む六十軒ほどの村に自転車屋さん、床屋さんを含めると八軒もの「お店」があった。おつかいで店に行くと店番がいないのが当たり前で、夕方には決まって奥の炊事場で夕飯の支度をしている音がする。私はその音に向かって聞こえるように「はーえ」「はーえ」と叫んでいた。

「はーえ」──このちょっと気の抜けたような言葉、これが店に入るときの挨拶だった。すると奥から「はいはい、はーい」と言って前掛けで手を拭きながらおばちゃんが出てきてくれた。「豆腐、ひとつ」と言うと「偉いねー、こうちゃん」と名前まで呼んで褒めてくれた。豆腐を鍋に入れてもらうと、手に跡がつくほど握りしめていた何枚かの十円玉を渡した。

小学校に上がると教員室には一礼してから入るように教わった。中学校では部活の体育館、道場、そしてグラウンドに入るとき「よろしくお願いします」と声に出してお辞儀をしてから入るように教わった。それが当たり前だった。「敷居をまたぐ」という言葉がある。それはどこか「襟を正す」に近いものを感じる。改まっての挨拶は今さら照れくさいところもあるが、ここ一番では必要なこともある。

そうだ、この冬から酒つくりの部屋に入るたびに一礼することを始めてみよう。心のなかで「よろしくお願いします」と言って仕事を始めよう。その緊張感のある姿を、きっと酒つくりの神様は見ているはずだ。もしかしたら、蔵元のご先祖様も見てくれて「杜氏にボーナスをくれてやれ」と社長の耳元で囁いてくれるかもしれない。そう、もしかしたら。