[特別編] 「山内杜氏」・・・生真面目さの歴史

山内杜氏

雪の白さが眩しい初雪の頃だ。二十年も前になるだろう、酒造り集団「山内杜氏」の故郷横手市山内(旧山内村)を車で通ることがあった。降ったばかりの屋根の雪を下ろしている人の姿は、ほとんどが女性だった。「男たちが酒造りに出る間は、家を守るのは女の仕事。雪の量が少ないうちから下ろしておかないと大変になる。豪雪地帯のかあちゃんたちの知恵だな」と同乗者が教えてくれた。

「寒造り」といわれるように、冬に集中して酒を造る蔵元のところへ、農閑期である冬場の仕事を求めていた山村の農家の子弟が、はじめは若勢(奉公人)として酒蔵に入った。防寒具や手袋を身につけない冬の水仕事は想像を絶する。布類を素足で踏み洗いし、水際があかぎれでしもやけになり、痛くて夜寝られなかったと聞く。前の山内杜氏組合長、高橋徳保さんは「中学出てすぐ連れて行ってもらいたがったけど、体力ねばダメだって言われた。野良仕事で鍛えでからだって」。その前の組合長、吉野典治郎さんは「一年、二年、三年。来る日も来る日も庭掃き桶洗い小僧。いつになれば酒つくり教えてくれるんだろうと思っていた」。ちなみにこのお二人も現在の組合長の高橋藤一さんも、酒造りの長年の功労を讃えられ、黄綬褒章を受章されている方々だ。

そんな酒造りの先人たちを精神的に支えて来たものはなんだろう。この山内という土地に根付く〈生真面目さ〉ではないだろうか。その資質を感じた蔵元さんたちは、お盆のころに蔵人を集めて行う「酒造講習会」を全面的にバックアップしてくれた。講習を受けた人の中には頭角を現す人が出てくる。そして「人を集めて、うちの蔵が一年売る酒を春までに造ってくれ」という依頼が舞い込むことになる。こうして杜氏をトップに据えた請負が始まっていったらしい。この杜氏制、酒造りの現場に関して一切口を出さない潔い蔵元の考え方がある。その一方で、働く側から見ると「全責任は杜氏にある」という厳しい通達にもとれる。高価な米を使うという責任、蔵人とその家族の生活がその肩にのしかかる。失敗は許されない。

私が酒造りの世界に入った30年前、「葬式に出たら○日間、お産に立ち会ったら○日間、蔵への出入り禁止」ということを聞いた。「ちょっと待ってよ、この世界は何時代?」と正直びっくりした。一度酒造りに入ると、一切の邪念はまかりならぬと自らを戒めたものなのだろうか。酒造りは繊細な微生物相手。目を凝らし、耳を澄まし、香りを嗅ぎ分け、味を確かめる。すべての感覚を集中しなければならない仕事だ。「親の死に目に会えない」「冬に生まれた赤ん坊は、春まで会えない」そんな言葉さえ大げさに思えなくなってくる。片時も蔵から離れず、夜はもろみと添い寝するような、そんな心境でやって来た仕事ではあるまいか。

最近の酒造り、冬場だけの仕事を求める人が減ったこと、製造石数の減少や、一年を通してお酒を管理するためにも、社員が、そして中には蔵元自身が杜氏として酒をつくることも珍しくなくなってきた。

酒造りは霧のかかった山に登るのに似ている。よりおいしいもの、新しいものと思って必死に登る。目指す〈頂き〉に着いて、まだ誰も足を踏み入れていない世界だと達成感に浸る。しかし、それもつかの間、霧が晴れるとその〈頂き〉には無数の先人の足跡があることに気づく。これまで登ってきた道さえも、その先人たちが踏み固めて来たものであることを知る。その足跡は教えている。

「おいそこの若いの、まだまだもっと高いところがあるよ」と。