[其の三] あちことね(案ずることはない、心配ない)

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 ささいなことで悩むことがある。迷うことがある。そんなとき「H先生ならどう思うだろう」と考える。亡くなって30年以上も経つのにいつも頼ってしまう。
私が中学のときの担任だったH先生は、もともとは国語と社会の先生。それが教師になってから合唱のとりこになって音楽の先生になった人だ。放課後の合唱部からは文化部とは思えないほどのH先生の怒鳴り声が聞こえ、夕暮れの校舎にこだましていた。
眼鏡の奥の目がどこかイヤラシイ。体育祭のジャージが古くさくてぽっこりお腹が目立つ。ホームルームのとき、女子生徒を指定して「○○子、肩もんでけれ」と言ってマッサージさせる。H先生の印象はその時まで最悪だった。
ある日のホームルームのこと。先生が「野球の練習には出てたんだってな?」とトシヒコに話しかけた。その瞬間「トシヒコがごしゃがれる(叱られる)!」私はとっさに思った。トシヒコは野球部のキャプテン。郡大会を直前にして体調を崩し学校を休んでいた。しかし、二日目からは授業を休みながら練習には顔を出していたのだ。
ところがH先生は、「心配したぞ、よかったなトシヒコ。頑張れ、キャプテン!」それだけ言って教室から出ていった。
この一瞬のことで私にとってH先生が急に特別な存在となった。先生の目には「あちことね(心配するな)。俺はちゃんと見てるよ」という子どもたちに向けてのメッセージがあった。「ひたむきさ」が大好きだということがわかった。こんな先生に「見ていてほしい。声をかけてほしい。褒めてほしい」という思いが私の中に芽生えた。
そういえばこんなことがあった。グラウンドの草むしりを必死に「ひたむきに」していた私に先生が近寄り、声をかけてくれた。
「森谷、俺の娘をおまえの嫁にくれてやる。お前みたいな男を探してたんだ」のひとこと。ついにほめられた? とんでもない。だめだよ先生。先生のところ、息子二人だってみんな知ってるよ。