[特別編]「襷・タスキ」 に寄せて

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私たちは誰からタスキを受け取って、誰に渡すのだろう。
私たちが受け取って渡すタスキって何だろう。

ひとりだったら、休みたくてさぼりたい自分。
でも、目の前の中継地点で倒れ掛かるようにタスキを手渡されたら、
きっとここ一番、心入れ替えて頑張らねばと思ってしまうよ、きっと。

先輩から後輩へ、先生から生徒へ、大工の棟梁から弟子へ。
そして、親から子へ。
渡すタスキは言葉ではないことも多いだろう。
それは取り組む姿勢であり心意気なのかもしれない。
前走者へのあこがれと尊敬の気持ちがなければうまく引き継がれないだろう。

人の中には愚かさが住んでいるらしい。
その愚かさゆえに、大ブレーキ。ずっと遅れて手渡される。
だからって、愚痴って言い訳ばかりをしていてはレースが終わってしまう。
愚かさを受け取って、愚かさのまま、タスキを渡してはいけない。
何年後かに「あのことがきっかけでかえって発奮しました」とインタビューで答えたいんだ。

私たちは誰からタスキを受け取って、誰に渡すのだろう。
私たちが受け取って渡すタスキって何だろう。

私たち蔵人は、農家さんの米を受け取って酒というタスキに変えて地酒屋さんや小売店さんに渡します。
地酒屋さんは我々の思いを言葉に変えてお酒といっしょに愛飲家の皆さんに手渡してくれます。
だからこそ、私たちはそれぞれの思いが心に残るお酒をつくらなければなりません。飲めばなくなるお酒だからこそ。

 

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[其の八] 『うめゃもの(うまいもの、おいしいもの、甘いもの、お菓子)』

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小さいころ「言うごと聞げば、《うめゃもの》かせる」とよく言われた。〈おりこうさんにしていたらお菓子を食べさせてあげる〉という意味だ。この魔法のひと言に、ワンパク坊主たちは借りてきた猫のように上目づかいにおりこうさんにしていた。その当時の《うめゃもの》は《甘いもの》であり、めったに口にすることのない「お菓子」だった。

さて、食いしん坊の自分にはかなり酷な質問ではあるが「あなたにとって今一番のおいしいものはなんですか?」と自問してみる。迷いながらも「煮付け」と答えるだろう。鶏肉にごぼう、糸コン、凍み豆腐…。そうそう、ゼンマイ、タケノコなどの山の幸があれば言うことがない。甘辛く煮付けると、ご飯はもとよりまずお酒が進む。我が家の食卓に「煮付け」が登場すると私の顔はゆるゆるの笑顔になる。

ある日の夕飯、そのゆるゆるの私を見て、嫁さまが聖母のような微笑みで語りかけてきた。

「おいしい? ……ふうーん、よかったわね。それ、お義母さんが作ったの」。

その後、会話がしばらく途切れる。「聖母の微笑み」が一気に「氷の微笑み」に見えてくる。むむむ……、嫁姑問題。最近うまくいっていたから、気が緩んだんだ。まずい、やってはいけないことをしてしまった……。きっと嫁さまは「私の作ったものには見せないその嬉しそうな顔。なによその顔。『キミのつくったものが一番おいしい』だなんて嘘っぱち。私は塩分を抑えて、砂糖も少なめにして、最高にカラダに気を使ってるっていうのに。お義母さんの作るこてこての煮付けがそんなにおいしいんだったら、三度に三度作ってもらったら!」。

嫁さまの目が静かにそう言っている。

沈黙の食卓。もはや味さえわからない。

今はなにを言ってもとり合ってくれないだろうから、せめて自分の中で精一杯の「言い訳」をする。

人の味覚とは二十歳辺りであらかた決まってしまうと聞いたことがある。つまり、小さい時に何を食べてきたか。そして、何を「おいしい!」と思ってきたかにあると。鮭が生まれた川に戻るように、家から離れてしばらくすると、母親やばあちゃんの慣れ親しんだ味を探すような気がする。そしてその味にたどり着くとホッとする。「おふくろの味」はそんな心持ちのことかなと思う。

とかくその土地の名物料理というと食材が真っ先に取り上げられる。でも、その食材が他の土地にもあるものだったりする。だったら何が名物なのか? きっと工夫したその味付けだろう。その土地の人たちの舌に染み付いた「おいしい! 」の記憶だ。お酒もその土地の人たちがおいしいと思う味わいにするから「地酒」なんだ。

さて『それお義母さんが作ってくれたの』事件からなんとか小康状態となった我が家に息子たちが久しぶりに帰ってくる。ここぞとばかりご機嫌を取ろうと「大変だろうから、食事は外でしようか?」と私が言うと、嫁さまは「だめだめ」とあっさり切り返す。

「二男と三男は私の餃子が食べたいって言うし。長男はゼンマイとタケノコの煮付けが食べたいって言うから…。ウチは定食屋じゃないっていうの、まいっちゃう。あぁいそがしい、いそがしい」。

笑顔で「おいしい!」と声に出していうと、次の「おいしい!」を作るエネルギー源になる。しかしな、息子たちよ。くれぐれも嫁さんや彼女の前で「おいしい! これ食べたかったんだよな~」だけは御法度だぞ。くわばら、くわばら。



[其の七] 『どやぐ(友達、親友)』

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この「どやぐ」という言葉には、幼なじみ、竹馬の友…、そういった意味がある。二人の男の子が肩を組み、空いた片方の肩に釣り竿、そうしてもう一人の手にはバケツ。肩を組むこと=友達の証、そんなイメージがある。

中学の頃の話だ。はちきれそうなワクワク感で迎えた新学期。その気持ちは配られた一枚の紙で萎えてしまった。

「身上書」というその用紙の二つの質問欄の答えがなかなか埋まらないからだ。ひとつは「御父兄の家庭での教育方針は?」だ。母に聞くと、父さんに聞いてと言われた。父に聞くと「めんどくさい。そんなのウチにないべ。なんやかんや書いとげ」といわれた。腹一杯食べて朝元気に起きてくれば上等、みたいな家に「教育方針」という四文字熟語は存在しない。しかたなく、「人に迷惑をかけない人になってほしい」などと書いてお茶を濁した。

もうひとつ、例の「身上書」の埋まらない欄とは「あなたの友達はだれですか?」だ。こっちはもっと往生した。頭には何人かの「友達」の顔が浮かんだ。ただし、その半分近くが年上、先輩なのだ。「先輩を友達と言っちゃ失礼だ」と思った。次に同学年の友達も頭に浮かんだ。しかし「待てよ。俺が一方的に思っているだけで、彼はそんなことちっとも考えてなくて…。彼は、◯男と◯平の名前をこの欄に書くかもしれない。きっとそうだ」そんなこと考えていた。いっそのこと「あのさ、ちょっと確認だけど、俺たち、友達だよね?」と聞いとけばよかったのか。もちろん、できっこない。恋愛感情だけじゃなく、『友達感情』もどこかしら、思い出すと幼さゆえの甘酸っぱいところがあるものだ。

現代の若者はどんな友達の定義を持っているのだろう。二十歳を迎えた三男坊に『現代友達事情』を探ってみた。

「まず、携帯の電話帳に載ってる人。すべてじゃないけどね。LINEとかのやり取りがある人かな。よく言うじゃない“つながってる”って。“つながる”と“友達”はほとんど同じだと思うよ。だんだん友達の友達と仲良くなっていくしね」。

フェイスブック、ツイッター、LINE…。当たり前となった人と“つながる”方法だ。

「あんまり枠に縛られないで、あまりムリしないで付き合えるから」といって正月に集まった彼らは高校も性別も別。ただ『バスケットボールを同時代に頑張った』という“くくり”だ。還暦に近いおっさんもなんか「いいね!」と素直に思う。しかもその刺激を受けておっさん、その“つながる”を始めてみた。今のところ「帰りに焼肉のタレ、中辛買ってきて」という嫁さんのメッセージが入るくらいだけど。

一年半ほど前、あるきっかけで「酒ってなんだろう」と真面目な気持ちで「飲まない時間」を過ごしてみた。しばらくして、自然と湧いてくる感情があった。「人恋しさ」とでも言えばいいのだろうか。酒も気心の知れた友人も同じようなところがあると思った。「それはよかったね」といっしょに喜んでくれる。そして「いつまでもくよくよするな」と励ましてくれる。楽しいことが倍になり、辛いことが半分になる。

久しぶりに遠くから友達が来る。仕事をフル回転で片付けよう。旨い酒を選んでおこう。畑の野菜を漬物にしよう。そして言うんだ。「よう飲み友達、ひさしぶり。明日は休みをとったからゆっくりやろう」って。

 

〈 恋する秋田新聞 2014年 2-3月号掲載 〉